昔の日本は世界で一番恵まれた国だった [地域]
1投稿者:777  投稿日:2009年06月20日(土) 09時01分56秒

18 :Ψ:2009/06/18(木) 02:52:02 ID:0z9PsnkK0

アメリカ初代駐日公使
「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者も居ない。−これがおそらく人民の本当の幸福の姿というものだろう。
私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増すことになるか、疑わしくなる。」


19 :Ψ:2009/06/18(木) 03:04:55 ID:0z9PsnkK0

イギリス初代駐日総領事 オールコック
「日本が風券領主の圧制的な支配で庶民が苦労させられていると聞いていた。だが、これらの良く耕作された谷間を横切って、非常な豊かさのなかで
所帯を営んでいる幸福で満ち足りた暮らし向きの良さそうな住民を見て、これが圧制に苦しみ、過酷な税金を取り立てられて窮乏している土地とはまったく信じられない。
 むしろ、反対にヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きの良い農民は居ないし、またこれほどまでに穏和で贈り物の豊か風土はどこにもないという印象をもった。
気楽な暮らしを送り、欲しいものも無ければ、余分なものもない。」
2投稿者:777  投稿日:2009年07月05日(日) 14時40分40秒

外国語を自在に取り込んでしまう日本語の柔軟性

 日本人が文明開化のかけ声と共に、数千数万の和製漢語を作りだして西洋文明の消化吸収に邁進したのは、そのたくましい知的活力の現れであるが、同様の現象が戦後にも起きている。現在でもグローバル・スタンダード、ニュー・エコノミー、ボーダーレスなどのカタカナ新語、さらにはGNP、NGO、ISOなどの略語が次々とマスコミに登場している。

 漢語を作るか、カタカナ表記にするか、さらにはアルファベット略語をそのまま使うか、手段は異なるが、その根底にあるのは、外国語を自由自在に取り込む日本語の柔軟さである。

 漢字という表意文字と、ひらがな、カタカナという2種類の表音文字を持つ日本語の表記法は世界でも最も複雑なものだが、それらを駆使して外国語を自在に取り込んでしまう能力において、日本語は世界の言語の中でもユニークな存在であると言える。この日本語の特徴は、自然に生まれたものではない。我々の祖先が漢字との格闘を通じて生みだしたものである。

■3.文字のなかった言語■

 漢字が日本に入ってきたのは、紀元後2世紀から3世紀にかけてというのが通説である。その当時、土器や銅鐸に刻まれて「人」「家」「鹿」などを表す日本独自の絵文字が生まれかけていたが、厳密には文字体系とは言えない段階であった。

 しかし、言語は本来が話し言葉であり、文字がなければ原始的な言語だと考えるのは間違いである。今日でも地球上で4千ほどの言語が話されているが、文字を伴わない言語の方が多い。文字を伴う言語にしても、そのほとんどは借り物である。

 アルファベットは紀元前2千年頃から東地中海地方で活躍したフェニキア人によって作り出されたと言われているが、ギリシア語もラテン語もこのアルファベットを借用して書けるようになった。現代の英語やロシア語も同様である。逆に言えば、これらの言語もすべて文字は借り物なのである。

 わが国においても文字はなかったが、神話や物語、歌を言葉によって表現し、記憶によって伝えるという技術が高度に発達していた。今日、古事記として残されている神話は、古代日本人独自の思想と情操を豊かにとどめているが、これも口承によって代々受け継がれていたのである。

■4.古代日本にアルファベットが入っていたら■

 アルファベットは表音文字であるから、どんな言語を書くにも、それほどの苦労はいらない。現代ではベトナム語も、マレー語もアルファベットを使って表記されている。

 古代日本人にとっても、最初に入ってきた文字がアルファベットだったら、どんなに楽だったであろう。たとえばローマ字で「あいうえお」を書いてみれば、

a i u e o
ka ki ku ke ko
sa si su se so

 などと、「a i u e o」の5つの母音と、「k s 、、」などの子音が単純明快な規則性をもって、日本語のすべての音を表現できる。漢字が入ってきた頃の古代の発音は現代とはやや異なるが、この規則性は変わらない。日本語は発音が世界でも最も単純な言語の一つであり、アルファベットとはまことに相性が良いのである。
3投稿者:777  投稿日:2009年07月05日(日) 14時41分05秒

■5.日本語は縁もゆかりもない漢語と漢字■

 ところが幸か不幸か、日本列島に最初に入ってきた文字は、アルファベットではなく、漢字であった。「漢字」は黄河下流地方に住んでいた「漢族」の話す「漢語」を表記するために発明された文字である。そしてあいにく漢語は日本語とは縁もゆかりもない全く異質な言語である。

 語順で見れば、日本語は「あいつを殺す」と「目的語+動詞」の順であるが、漢語では「殺他」と、英語と同様の「動詞+目的語」の順となる。

 また日本語は「行く、行った」と動詞が変化し、この点は英語も「go, went gone」と同様であるが、漢語の「去」はまったく変化しない。発音にしても、日本語の単純さは、漢語や英語の複雑さとは比較にならない。似た順に並べるとすれば、英語をはさんで漢語と日本語はその対極に位置する。

 さらにその表記法たる「漢字」がまた一風変わったものだ。一つの語に、一つの文字を与えられている。英語のbigという語「ダー」を「大」の一字で表す。bigという「語」と、ダーという「音」と、大という「文字」が完全に一致する、一語一音一字方式である。さらに、英語では、big, bigger, bigness、日本語では「おおきい」「おおきさ」「おおいに」などと語が変化するのに、漢語はすべて「ダー」と不変で、「大」の一字ときちんと対応している。漢字は漢語の特徴をまことに見事に利用した最適な表記法なのである。

 たまたま最初に接した文字が、日本語とはまったく異質な漢語に密着した漢字であった所から、古代日本人の苦闘が始まる。

■6.漢字との苦闘■

 漢字に接した古代日本人の苦労を偲ぶには、イギリス人が最初に接した文字がアルファベットではなく、漢字であったと想定すると面白いかもしれない。英語の語順の方が、漢語に近いので、まだ日本人の苦労よりは楽であるが。

 イギリス人が今まで口承で伝えられていた英語の詩を漢字で書きとどめたいと思った時、たとえば、"Mountain"という語をどう書き表すのか? 意味から「山」という文字を使えば、それには「サン」という漢語の音が付随している。「マウンテン」という英語の荘重な響きにこそ、イギリス人の心が宿っているのに、「山」と書いたがために「サン」と読まれてしまっては詩が台無しである。

逆に「マウンテン」という「音」を大切にしようとすれば、「魔運天」などと漢字の音だけ使って表記できようが、それぞれの漢字が独自の意味を主張して、これまた読む人にとっては興ざめである。

 英詩には英語の意味と音が一体になった所に民族の心が宿る。それが英語の言霊である。古代日本人にも同じ事だ。漢字は一語一音一字という性質から、それ自体に漢人の言霊が宿っており、まことに他の言語にとっては厄介な文字であった。

■7.言語と民族の心■

 こういう場合に、もっとも簡単な、よくあるやり方は、自分の言語を捨てて、漢語にそのまま乗り換えてしまうことだ。歴史上、そういう例は少なくない。

 たとえば、古代ローマ帝国の支配下にあったフランスでは、4世紀末からのゲルマン民族の大移動にさらされ、西ゲルマン系フランク人が定住する所となった。フランク人は現代のドイツ語と同じ語族に属するフランク語を話していたが、文化的に優勢なローマ帝国の残した俗ラテン語に乗り換えてしまった。これがフランス語の始まりである。

 英語も1066年フランスの対岸からやってきたノルマン王朝に約300年間支配され、その間、フランス語の一方言であるノルマン・フランス語が支配階級で使われた。英語はその間、民衆の使う土俗的な言語のままだった。今日の英語の語彙の55%はフランス語から取り入れられたものである。そのノルマン人ももとはと言えば、900年頃にデンマークからフランス北西岸に植民したバイキングの一派であり、彼らは北ゲルマン語からフランス語に乗り換えたのである。

 こうして見ると、民族と言語とのつながりは決して固定的なものではなく、ある民族が別の言語に乗り換えることによって、その民族精神を失ってしまう、という事がよくあることが分かる。前節の例でイギリス人が漢語に変わってしまったら、「やま」を見ても、"mountain"という語と音に込められた先祖伝来の言霊を全く失い、「山」「サン」という漢人の心になってしまっていたであろう。
4投稿者:777  投稿日:2009年07月05日(日) 14時41分56秒

■8.カタカナ、ひらがなと訓読みの発明■

 漢字という初めて見る文字体系を前に、古代日本人が直面していた危機は、文字に書けない日本語とともに自分たちの「言霊」を失うかも知れない、という恐れだった。しかし、古代日本人は安易に漢語に乗り換えるような事をせずに漢字に頑強に抵抗し、なんとか日本語の言霊を生かしたまま、漢字で書き表そうと苦闘を続けた。

 そのための最初の工夫が、漢字の音のみをとって、意味を無視してしまうという知恵だった。英語の例で言えば、mountainを「末宇无天无」と表記する。「末」の意味は無視してしまい、「マ」という日本語の一音を表すためにのみ使う。万葉集の歌は、このような万葉がなによって音を中心に表記された。

 さらにどうせ表音文字として使うなら、綴りは少ない方が効率的だし、漢字の形を崩してしまえばその意味は抹殺できる。そこで「末」の漢字の上の方をとって「マ」というカタカナが作られ、また「末」全体を略して、「ま」というひらがなが作られた。漢人の「末」にこめた言霊は、こうして抹殺されたのである。

 日本人が最初に接した文字は不幸にもアルファベットのような表音文字ではなく、漢字という表語文字だったが、それを表音文字に改造することによって、古代日本人はその困難を乗り越えていったのである。

 しかし、同時に漢字の表語文字としての表現の簡潔さ、視覚性という利点も捨てきれない。mountainをいちいち、「末宇无天无」と書いていては、いかにも非効率であり、読みにくい。そこで、今度は漢字で「山」と書いて、その音を無視して、moutainと読んでしまう「訓読み」という離れ業を発明した。こうして「やま の うえ」という表現が、「山の上」と簡潔で、読みやすく表現でき、さらに「やま」「うえ」という日本語の言霊も継承できるようになったのである。

■9.日本語の独自性と多様性■

 こうして漢字との格闘の末に成立した日本語の表記法は、表音文字と表語文字を巧みに使い分ける、世界でももっとも複雑な、しかし効率的で、かつ外に開かれたシステムとして発展した。

 それは第一に、「やま」とか、「はな」、「こころ」などの神話時代からの大和言葉をその音とともに脈々と伝えている。日本人の民族文化、精神の独自性はこの大和言葉によって護られる。第二に「出家」などの仏教用語だろうが、「天命」というような漢語だろうが、さらには、「グローバリゼーション」や「NGO」のような西洋語も、自由自在に取り入れられる。多様な外国文化は「大和言葉」の独自性のもとに、どしどし導入され生かされる。

 外国語は漢字やカタカナで表現されるので、ひらがなで表記された大和言葉から浮き出て見える。したがって、外国語をいくら導入しても、日本語そのものの独自性が失われる心配はない。その心配がなければこそ、積極果敢に多様な外国の優れた文明を吸収できる。これこそが古代では漢文明を積極的に導入し、明治以降は西洋文明にキャッチアップできた日本人の知的活力の源泉である。

 多様な民族がそれぞれの独自性を維持しつつ、相互に学びあっていく姿が国際社会の理想だとすれば、日本語のこの独自性と多様性を両立させる特性は、まさにその理想に適した開かれた「国際派言語」と言える。この優れた日本語の特性は、我が祖先たちが漢字との「国際的格闘」を通じて築き上げてきた知的財産なのである。
5投稿者:777  投稿日:2009年07月05日(日) 15時07分17秒

■日本語と近代中国■

 中国の外来語辞典には、「日本語」とされているものが非常に多い。そのごく一部を分野別に拾ってみると:

思想哲学: 本質、表象、理論、理念、理想、理性、弁証法、倫理学、倫理学、、、
政治軍事: 国家、国民、覇権、表決、領土、編制、保障、白旗、、
科学技術: 比重、飽和、半径、標本、波長、力学、博士、流体、博物、列車、変圧器、冷蔵、
医学:   流行病、流行性感冒、百日咳、
経済経営: 不動産、労動(労働)、舶来品、理事、保険、標語、例会、

 博士などは、昔から中国にあった言葉だが、近代西洋の"doctor"の訳語として新しい意味が与えられ、それが中国に輸入されたのである。

 日本が明治維新後、西洋の科学技術、思想哲学を導入する際に、各分野の概念、用語を表す数千数万の和製漢語が作られ、それらを活用して、欧米文献の邦訳や、日本語による解説書、紹介文献が大量に作成された。中国人はこれらの日本語文献を通じて、近代西洋を学んだのである。

 軍事や政治の用語は、日露戦争後に陸軍士官学校に留学する中国人が急増し、彼らから大陸に伝わった。後に国民党政府を樹立した蒋介石もその一人である。当時はまだ標準的な中国語は確立されていなかったので、各地の将校達は日本語で連絡しあって革命運動を展開し、清朝打倒を果たした。

 さらに中共政府が建前としている共産主義にしても、中国人は日本語に訳されたマルクス主義文献から学んだ。日本語の助けがなかったら、西洋の近代的な軍事技術や政治思想の導入は大きく遅れ、近代中国の歴史はまったく異なっていただろう。
6投稿者:777  投稿日:2009年07月05日(日) 15時08分19秒

欧米人の使っている文字はアルファベットですが、フェニキア人たちの文字であり、英語といってもイギリス人が発明した文字ではない。ところが日本人が使っている「カタカナ}や「ひらがな」は日本人が発明した文字であり、漢字を略して作られたものだ。世界にも文字の種類が100種以上もありますが、多くが少数民族の文字であり国家や民族の衰退によって消えて行くと予想されます。

日本語も最初からアルファベットが入っていれば苦労はなかったのでしょうが、漢字が入ってきたために万葉仮名を使って間に合わせた。韓国語もハングルと言う民族文字を使っていますがなぜアルファベットを使わなかったのだろうか? 日本語も明治維新や戦後など表記にローマ字を使うことが検討されましたがうやむやになった。

もし日本語ワープロが出来なかったならば電子化で大きく遅れを取る事になり、インターネットにも乗れずに、仕方なく日本語がローマ字表記になったかもしれない。そうなったら今でも手書きで文字を書き、タイプライターやインターネットで入力する時はアルファベットで入力していた事だろう。

問題は中国でも同じであり、中国でも共産革命後にアルファベットを使うことが検討されましたが、発音が地方でバラバラだから意味が通じなくなってしまう。仕方なく漢字の簡略化で対応しようとしています。日本もアルファベットだと秋田弁や鹿児島弁など外国語みたいに通じなくなっていた事だろう。漢字を使っていたから発音がバラバラでも通じましたが、表音文字は言葉が訛ると違う言葉になってしまう。

アルファベットは表音文字ですが英語のように世界で使われるようになると訛りが出来て米語や英語やオーストラリア英語など分かれてくる。時間が経てばラテン語がイタリア語やスペイン語やフランス語になっていったように別の言葉になっていくのだろうか? ラテン語はローマ帝国滅亡と共に滅んだように、アメリカ帝国が滅びれば英語も分裂していく。

アメリカ帝国は21世紀中におそらく滅びて幾つかの国に分裂するだろう。それと共にグローバル言語となった英語もラテン語のように消えてなくなって行くだろう。表音文字を使っていれば訛りの変化は避けられないから少しづつ違ってくる。それに対して漢字は表意文字だから発音が違ってきても意味は通じるから統一性は保たれる。

だからこのまま英語が世界の公用語となって行くかどうかはアメリカ次第なのであり、アメリカが石油が枯渇して衰退していけば、世界第二位の経済大国である日本語が世界共通語になる可能性がある。日本がこのまま技術力や経済力でトップを走り続けていけば、日本に追いつくには日本語を学ぶ必要があり、世界中から留学生が集まるようになるだろう。

中国人が日本語を学ぶのは簡単だろう。そうなれば13億人が日本語人口となり英語人口を上回る人口となり文字通りの世界言語となるだろう。韓国が日本語文化を受け入れようとしないのは日本語によって占領されてしまうのを恐れるからだ。日本語世代の台湾の老人が言っていた様に難しい事を考えるには日本語でないと出来ないと言う事があるからだ。

日本人がなかなか英語を覚えようとしないのも、難しい事を考えるには日本語でないと出来ないからであり、英語を学ばないと難しい事が考えられないとすれば高等教育は自然と英語で行なわれるようになるはずだ。多くの発展途上国はそうなってきているし、多くのヨーロッパ人は非常に英語が達者だ。自国語では本も手に入らないから英語の本を読まなければならない。必然的に英語が上手になる。ところが日本では主だった本が数ヵ月後には翻訳されて出るから英語が出来る必要がない。

中国で使われている専門用語の多くが日本語であり、今でも専門用語が日本から中国に輸出されている。中国人や韓国人が英語を学ぶよりも日本語を学んだ方がいいと分かれば日本語の普及が東アジアで広まるだろう。日本語は発音が簡単だし、漢字がわかれば大体の意味が分かるから英語ほど苦労しないで済む。そして22世紀には日本語と英語が世界共通語として使われるようになるだろう。

http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu195.htm
7投稿者:777  投稿日:2009年10月28日(水) 21時17分40秒

30年前に徳山ダム予定地で水没する運命だった徳山村に入って民俗調査したとき、飲み屋のママが「「毎晩、若い衆が「やらせろ」と忍んでくるので本当に困る」」 とこぼしていた。徳山など西日本の閉ざされた村では、後家さんが若衆の性教育をする義務があった。

 女子は初潮が来れば離れに住まわせ、赤飯を配った。これが「おいで」の合図で、その晩から近所の若衆が娘の元に夜な夜な忍んでくる。これを「夜這い」と呼び、1960年代まで、西日本では、ありふれた習俗だった。

 当然、子供ができるが、お腹が膨らめば、娘は忍んできた若衆のなかから一番気に入った男を夫に指名する権利があった。若衆は、これを拒否することはできなかった。もし拒否すれば、村から叩き出されるほどの指弾を浴びた。 

夫指名はお腹の子の種男である必要はなかった。どうせ、生まれた子供は、村の共同体みんなで育てるのであって、誰の子でも構わないのだ。子供は村全体の財産であり、みんなで育てる義務があった。村の共同体では、困ったことは、みんなで相談して解決するのであって、一人でも飢える者を出すことは許されず、餓死するときが来れば、みんなで一緒に餓死したのである。そこには貧しくとも、孤独という苦悩は皆無であった。
 
 やがて若衆が都会に出るようになり、都会の家畜的労働者の習俗を村に持ち帰ることによって、夜這いも廃れ、共同体も瓦解していったが、祭りなどには、そうしたフリーセックスの習慣が遅くまで残り、1980年代まで村の祭りは無礼講であり、どの人妻と寝ても良かった。

できた子供が、父親の子である必要があるのは、権力と財産を相続する必要のある名主や武家に限られいて、共同体生活をしてきた民衆には、受け継ぐべき権力も財産もなく、したがって父の子を特定する理由がなかったのである。

8投稿者:777  投稿日:2010年01月30日(土) 10時01分34秒


39 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 08:23:32
Y染色体の割合とかで考えると
西日本の少数の縄文人が、さらに少数の弥生人を吸収して
比較的早い段階で現代の日本人とほぼ同じ混血人種が西日本に誕生。
その混血人種は縄文人より寿命が長く、繁殖率も高かったので
数を増やしながら東北や北海道、南九州に進出して
日本列島の主要民族になりましたって感じだろ。



60 :日本@名無史さん:2009/12/16(水) 22:20:52
河内国が列島随一の渡来人の集住地域であったことはよく知られているが、
なかでも大和川と石川の合流点付近の中河内から南河内にかけての地域、
令制の郡でいえば河内・高安・若江・志紀・安宿・古市・丹比の諸郡は特に顕著である。
ほかにも北河内の茨田郡・南河内の石川・錦部両郡・摂津の難波津付近・和泉南部の日根地域などに
渡来人の集中的な分布がみとめられる。

列島の古代史1(古代史の舞台)
岩波書店(2006/07/28)
執筆者:熊谷公男 東北学院大学教授(日本古代史)


9投稿者:777  投稿日:2010年01月30日(土) 10時01分56秒

19 :日本@名無史さん:2009/11/08(日) 19:35:30
 帰化人たちは、そのほとんど全部が奈良盆地、大阪平野、京都盆地と、
その周辺地域である播磨平野、紀ノ川流域、近江盆地あたりに根をおろしたといってよい。
 この点はこののちずっと古代を通じてたいしてかわらない。
大化改新(六四五)以降には、未墾原野の開拓のために、計画的に帰化人の集団を東国各地に移植した例も少なくないが、
それでもめぼしいものはたいてい中央に置かれた。
 したがって、近畿地方と古代の帰化人というものは、最初から最後まで、深い関係をもっていたのである。

関晃『古代の帰化人』(吉川弘文館)
10投稿者:777  投稿日:2010年01月30日(土) 10時02分54秒

11 :日本@名無史さん:2009/11/08(日) 14:58:28
倭人が朝鮮出目なら史実にちゃんと書いてあるはずだわな。

たとえば半島人の出目について、
「新羅は始皇帝の際に半島に移民した秦の人民が建てた国だから言語が秦に似ている」だとか、
「衛氏朝鮮は燕の衛満が建てた国」だとか、「楽浪郡は漢の武帝が建てた国」だとか、
「百済は扶余の移民が海を渡って作った国」「瓠公は海を渡ってきた倭人」等々とちゃんと書いてあるように。


11投稿者:777  投稿日:2010年02月27日(土) 12時37分37秒

美意識の革命は日本から始まりました
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/328.html

 アールヌーボー(新しい芸術)という、世界規模で起こった美意識の革命が、
日本美術をきっかけに始まったことを、ご存知でしょうか?

 19世紀末、欧米列強各国が、日本に開国を求めて押し寄せました。
日本はやむなく開国し、欧米の人々はその時初めて日本の美術品、工芸品の数々を目にして、その素晴らしさに息をのんだのです。

 早速、安藤広重や葛飾北斎などの描いた浮世絵がヨーロッパに紹介され、
一大センセーションを巻き起こしました。

大胆な構図、草花など自然を題材に描いた曲線の美しさや絶妙な色彩感覚が、絶賛されたのです。

また川上音二郎とその妻、マダム貞奴が舞踊と歌舞伎もどきの芝居を持って欧米ツアーを敢行し、日本への関心はさらに高まりました。

 1900年にパリで開催された万国博覧会では日本の出品作品が関心を集め、
その文化的水準の高さが知れ渡りました。

以前から関心を集めていたジャポニズム(日本趣味)は
ここで定着し、絵画や彫刻、ポスターなどさまざまなジャンルに波及して、
アールヌーボーと呼ばれるスタイルにまで昇華していったのです。

以上、美輪明宏著「おしゃれ大図鑑」より引用
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西洋美術と日本美術は次元が違うと思います。
ぱっと見て、「いーなー」とすぐにわかるのが西洋美術。
大胆な目のつけ所、気の遠くなるような繊細さ、ユーモア、上品な美しさなど、
知れば知るほど味わい深く、愛着がわいてくるのが日本美術。  

12投稿者:777  投稿日:2010年10月11日(月) 12時21分45秒

江戸時代などを対象にした時代劇を見ると、
町人やら武士など、綺麗な着物を着て小奇麗な格好をしているが、
あれ全部嘘っぱち。
実際の江戸時代は、物凄く汚い着物を着ていて、洗剤も石鹸もなかったので、
どす黒く汚れてて、体臭も凄まじいものがあった。髪などは臭くてたまらなかった。
5メートル先からでも、強烈な臭いをかもし出していた。顔も赤などでどす黒かった。
そして上流階級の大名や姫なども例外ではなく、着物はどす黒く常に汚れていた。
爪にはうんこが入り込み、いつも茶色くなっていた。
部屋の障子などもビリビリニ破れていて、畳は体液などで汚れていて、
今では考えられないほど汚かった。
畳にはうんこや尿などがへばりついていた。
農村地帯では乱交が普通に行われていた。
夫婦のみでSEXするのは稀で、多人数とのSEXをやっていた。
現代でも、援助交際が受け入れられ、日本のAVが過激なのも、全てその名残である。
これは全部本当の話である。
爪にうんこが入り込み茶色くなってたのは知ってるよ。
そんな手でおにぎりを作って、うまうまい言いながら食べてたって。
知らなかった歴史という本に、おにぎりの話がのってて、
昔のおにぎりは白米なのに黒っぽくなってて、それば手垢と爪に入りこんだ「うんこ」だったんだって。
それをうまいうまい食ってたって。
時代劇はほとんど嘘だよね。
汚ねえー

だから伝染病がすぐに蔓延してたんだな。

現代じゃ考えられない
江戸時代はトイレットペーパーなんてなかったから
手で尻を拭いてたんだな。
でもその手をちゃんと洗えよな。
13投稿者:777  投稿日:2010年10月11日(月) 12時25分23秒

西日本も地獄だったようだよ

大原「ほほう。これが茶粥・・・」
「お粥とは白いものだと思っていたが。」
「和歌山では、白い粥は病人の食べるものとされています。普通の人は食べません。」
「またずいぶん水分が多いね。」」
「和歌山の茶粥は顔が映るくらいでちょうどよいと言われてるんです。」
士郎「熱いがうまい。」
ゆう子「いくらでも食べられるわね。」

「今の時代は贅沢になっていろんなものを食べますが、昔の農民は茶粥だったんですよ。」
飛沢「なんでお粥なんですか?」
「少量の米で満腹感を得るためです。飯に炊いて食べるより、お粥にすると水分が増えて腹にたまるでしょう。昔の農民は貧しかったんですよ。」
 (中略) 「和歌山の農民の苦しさ、その苦しさゆえに 茶粥が普通の食事になったことが書かれています。」
「有田郡吉備町田角の租税率は江戸後期に八割九毛三糸だったそうです。今で言えば80.93%ですね。」
小泉「そ、それはひどい!」
士郎「徳川家康が百姓は生かさぬように殺さぬように≠ニ言ったとされているけれど、
  江戸時代の武士階級は農民を家畜同様に扱っていたんだな。」

「限られた米をどれだけ食い延ばしていくか、考えついた農民の悲しい知恵の産物なんですね。」
飛沢「美味しいなんて喜んでいたけれど、茶粥の背後には、農民の過酷な生活の歴史があるんだ。」
富井「毎日これでは辛いなあ。」
14投稿者:777  投稿日:2011年01月03日(月) 20時05分14秒

[155]なぜ、最澄(伝教大師)は長安にいけなかったのか? 投稿者:ジョー(下條) 投稿日:2011-01-03 18:45:24


新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいします。

さて、副島先生がぼやきで、最澄が長安、今の西安(シーアン)には行かず、天台宗の本山で修行したとことを取り上げています。

<引用開始>
この伝教大師(でんぎょうたいし)ともいわれる最澄(さいちょう)は804年に中国に渡っています。同じ年に空海(くうかい)も渡っています。空海は長安、今の西安(シーアン)にまで行っています。1年半ぐらいしか行っていません。

それに対して、最澄に至っては1年も行ってないのではないかと思います。最澄はどこへ行ったかというと、天台寺から行っています。日本の留学僧が必ず渡ったところは寧波(ニンポウ、ネイハ)という町で、上海からずっと南のほうへ行って、かなり大きな湾がある杭州(こうしゅう)の側(そば)です。中国人はみんな白酒という強い酒を飲みますが、日本人は紹興酒(しょうこうしゅ)が大好きです。その紹興という町に近いと思いますが、この寧波という町に日本人の留学生は何があろうがたどり着くわけです。そこよりさらに南のところに天台山というのがあって、ここが天台宗の総本山です。そこから、お経やら戒律やらをもらってきたわけで、大したことはありません。本当は長安まで行かなければなりませんでした。
(ぼやき「1152」 夏の終わりに実感で京都調査旅行を語る(3完)から引用)
<引用終了>

なぜ、最澄は長安に行かなかった、あるいは行けなかったのでしょうか?

その答えは、当時の唐の標準の発音である、いわゆる「切韻(せついん)」が彼はできなかったからというのが、私の考えです。



一般には、日本では神代(かみよ)の昔から、方言はあるものの、すべての人が同じ言語を話していたということになっています。日本書紀も古事記もそういう前提で話が進んでいるので、疑う人も問題にする人もいません。

しかし、歴史学者の岡田英弘氏は、日本にも実際は多くの言語があり、しかも、その人たちは、他の言語をしゃべる人たちとは商売以外の交流はほとんどなかっただろうと述べています。

<引用開始>
それでは、668年に天智天皇が日本を建国する前、7世紀後半の韓半島の人口構成はどうだったでしょうか。636年に唐が編纂した『隋書』の「東夷列伝」によると百済の国人は、新羅人・高句麗人・倭人の混合であり、また中国人もいる。新羅の国人も中国人・高句麗人・百済人の混合である、と書いています。この記事では百済には倭人がいるのに新羅には倭人がいないのが目立ちます。これは新羅が、倭から百済をへて南朝にいたる貿易ルートを外れているのが原因だと思います。


15投稿者:777  投稿日:2011年01月03日(月) 20時05分49秒
それでは日本列島ではどうだったか。ここで、同じ『隋書』に伝えられる、609年に隋使・裴世清が立ち寄った秦王国のことを思い出していただきたい。博多の竹斯のすぐ次が秦王国であり、しかもその先十余国をえてから倭国の難波の津に到着することから考えれば、秦王国は瀬戸内海の西部沿岸の下関付近だろうと思いますが、そこに中国人だけの秦王国という国が実際にあったことは、疑う余地がありません。そうして見ると、韓半島だけでなく、日本列島も人口構成は似たようなもので、倭人以外の種族が混じって住んでいたことになります。
(『日本史の誕生』より引用)
<引用終了>

つまり600年頃、倭には中国人(秦人と漢人)・新羅人・高句麗人・倭人がいたことになります。彼らの何が違うのかといえば、風習もありますが、主に言語です。ちょっと長いですが、『倭国の時代』から引用します。

<引用開始>
たびたび説明したように、漢人・百済人の言語は楽浪群・帯方郡で土着化した中国人と中国化したわい人・朝鮮人・真番郡の土着民とかが使った河北・山東方言系の中国語の基礎の上に、後漢・魏・晋の河南方言と南朝の南京方言と、475年の百済の南下によって中国化した馬韓人の言語との影響が加わって出来た言語であり、倭国の首都の難波から河内・大和にかけて話されていた。

秦人・新羅人の言語は、それよりも古く倭国に入ったもので、辰韓・弁韓の都市国家郡を建設した華僑が話した前漢の陝西方言系の中国語を基礎とし、それに辰韓人・弁韓人の土語の影響が加わったものであったが、大和・河内では新しく侵入した漢人・百済人の言語に圧倒されて影が薄くなり、奥地の山城・近江を中心として話されていた。

倭人の言語は3つの中では一番古いが、畿内の諸国では、平野部に入植して来た帰化人の言語の影響で語彙も文法もひどく変わってしまっていた。

以上の3つの言語はそれぞれ話される場がちがう。それぞれの言語を話す人々は、別々の社会を構成していて、コミュニケーションの必要があれば、ブロークンな中国語と倭語をちゃんぽんに使って、やっと用を弁じたのである。
(『倭国の時代』から引用)
<引用終了>

主に分ければ、倭には3種類の言語、つまり漢人(あやびと)・百済人の言語、秦人(はたびと)・新羅人の言語、倭人の言語があったわけです。そして彼らは「別々の社会を構成していて、コミュニケーションの必要があれば、ブロークンな中国語と倭語をちゃんぽんに使って、やっと用を弁じ」ていました。



さて、これらは違う言語ですが、特にちがうのが発音あるいは発声です。これは現代の我々の漢字の読み方にも残っています。

例えば「行」という漢字。これは「ぎょう」とも「こう」とも「あん」とも読めます。「ぎょう」を呉音、「こう」を漢音(かんおん)、「あん」を唐音(とうおん・とういん)といいます。また、他にも、呉音が入る前の古い読み方である古音というのもあります。

例えば「妙法蓮華経」は、呉音では「みょうほうれんげきょう」ですが、漢音では「びょうほうれんがけい」になります。唐音では「びょうはれんがきん」だそうです。

呉音は、名前からいってどうやら南方系の発音のようですから、先ほどの百済人・漢人の系統の言語でしょう。

一方、長安などの唐の中国語の発音が漢音です。また漢音の発音、発声、読み方を含めて切韻(せついん)といいます。後で述べるように新羅人・秦人の言語はこれに近いようです。

ちなみに唐音というは、名前と違って、もっと新しい発音で、明から清の頃の発音をいうそうです。

日本には、この切韻の発音をするための「音博士」という制度がありました。どうやら、当時、日本では呉音の発音が主流であり、漢音は特別な人しか使えなかったようです。


16投稿者:777  投稿日:2011年01月03日(月) 20時07分12秒
では、最澄はなぜ長安までいかなかったのでしょう?実は、最澄の母親は漢人(あやびと)です。上記で言えば、百済・漢人系の呉音の発音をしていた人たちです。ですから、基本的に中国南東部のことばしか理解せず、また切韻もできなかったということになります。

副島先生によれば、通訳(義真という人)がいたというから、切韻ができる人間をつれていったのだと思います。

「いや、そんなこと言っても、中国に行けば、発音を覚えてなんとかなるでしょう」と思う方もおられるとおもいます。そこで、空海といっしょに西安に修行にいった橘逸勢(たちばなのはやなり)という人の文章があるので引用しておきます。

<引用開始>
空海と対照的なのが、入唐も帰国の一緒だった逸勢である。空海は唐で逸勢の代筆をした。

<中略>

中国とわが国では言葉が違っています。私逸勢はまだ中国の言葉が不自由で、学校で勉学に励むことができません、仕方がないので、以前学んだものを復習しています。また、琴や書を学んでいます。
(『古代日本人と外国語』から引用)
<引用終了>

「私逸勢はまだ中国の言葉が不自由で、学校で勉学に励むことができません」と正直に書いています。したがって、長安に行っても中国語(ここでは切韻)がわからなければ、「以前学んだものを復習する」しかないわけです。

いずれにしても、空海といっしょに長安に行った逸勢の手紙は、長安に行かなかった最澄の選択が正しかったことを如実に物語ってくれています。



さて、それでは、なぜ一方の空海は切韻ができたのか?という話になります。

さきほど、倭では3種類の言語に分けられるという話をしましたが、この中で、特に重要なのが、秦人が話していた言語です。609年に隋使・裴世清が立ち寄った秦王国では、「その人華夏と同じ」であったと述べています。この華夏というのは「華(はな)のような中国の中心部」という意味で、当時の長安と同じということです。

つまり、倭にいた人の中でも、秦人であれば切韻をなんとか理解できたことになります。ただし、668年の日本誕生以来、秦人・新羅人は必死に日本人として同化していったそうですから、800年のころに話せた人は、そうたくさんはいなかったでしょう。

そして日本人で長安に留学して活躍できた僧や留学生は、この秦人の系統の人たちだと思います。例えば、弘法大師の出身は多度津というところの近くですが、この多度津も明らかに秦人の町です。また吉備真備(きびのまきび)は吉備下道の人です。この下道の古い人は吉備上道と呼ばれていますが、彼らは秦人であったということがわかっています。

この秦人は、今では秦氏とよばれ、なにかあやしい民族のように思われています。しかし、言語が当時の中国の中心部と同じだったのだから、彼らこそが、隋・唐からの最先端の土木・工芸・医療技術の担い手だったのでしょう。今の日本で、英語ができると最新の社会科学が学べるのと全く同じです。

http://www.snsi.jp/bbs/page/1/
17投稿者:4  投稿日:2011年02月25日(金) 10時12分59秒

100 :ピンキーモンキー(埼玉県):2011/02/24(木) 17:10:56.20 ID:0h2N3ksP0

■チョーセン人・カンコク人が認めたくない歴史的事実の例
・弥生人が長江流域から稲作とともにやってきた百越系民族であること(稲のDNAによる証明)
・半島南部の先住民が倭人(日本人)(弥生人=百越系民族)であること(半島南部考古学的遺物=九州北部遺物)
・新羅の建国時の宰相(瓢公)が倭人(日本人)であり、王家の一つ昔氏が倭人系統であること、また始祖の
 朴赫居世についても倭人(日本人)説があること(瓢=ひさご・ひょうたん=朴=半島南部古語)
・百済、新羅が日本の大和朝廷に対し従属的地位にあったこと
・大和朝廷(日本)による伽耶地域の支配(半島南部における多数の前方後円墳の存在)
・半島における文化的独自性の欠落(あらゆる分野での古典の不在)→事実のねつ造,文化の掠奪
・常に日本、中国、モンゴルなどの属国として歩んできた歴史
・姓が漢族のものであること
・朝鮮征伐が日本と明との戦争であったこと(李朝の軍は明の将の指揮下に入り、和平交渉も日本と明の間で行われている)
・朝鮮通信使が実質的に日本への朝貢使節であったこと(琉球の江戸上りと同じ)
・李成桂が女真人=満州人であること
・固有語の語彙が乏しく、また日本のように字訓という制度的保証がない状態ですでに語彙のおよそ7割が日本漢語であること(学術的語彙は9割が日本漢語

中国系のほうがまだ可能性あるわ
http://shadow-city.blogzine.jp/net/2011/02/post_6c46.html#more
18投稿者:4  投稿日:2011年02月25日(金) 10時15分39秒

324 :うまえもん(長屋):2011/02/24(木) 18:18:16.05 ID:pV1ixmTc0

たまにまともな朝鮮人が現代でもいるのは幸運にも日本に支配されていた頃の
日本人の血が残っていた朝鮮人ということでしょうな。
まあこの辺は公平にお互いの歴史資料を提示して述べましょうね。
■中国の史料『東夷伝』の記述
「新羅も百済も日本を大国として敬い、仰ぎ、通商していた」
■中国の史料『三国志』の記述
「朝鮮半島南部は倭人が支配していた」
■高句麗の史料『広開土王碑』の記述
「日本が新羅と百済を属国にした」
※韓国人が石碑の改竄を主張するが、昔の拓本が2枚、中国で見つかり、中国人学者に否定される
■日本の史料『日本書紀』の記述
「新羅と百済は日本の属国」
19投稿者:削除跡 投稿日:時空の歪
20投稿者:削除跡 投稿日:時空の歪
21投稿者:777  投稿日:2011年08月16日(火) 07時49分58秒

稲作の起源とその考古学的分析
http://kinosemika.blog134.fc2.com/blog-entry-1006.html

従来、稲作は弥生時代に朝鮮半島を南下、もしくは半島南部を経由
して来たとされてきたが、2005年、岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期
(約6000年前)の地層から稲のプランド・オパールが見つかってお
り、縄文中期には稲作(陸稲)をしていたとする学説が多数出た。

それに加え、遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つから
ないこと、朝鮮半島で確認された炭化米が紀元前2000年が最古であ
り、畑作米の確認しか取れず、日本より遡れないこと、極東アジア
におけるジャポニカ種の稲の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中
国東北部からジャポニカ種の遺伝子の一部が確認されないことなど
の複数の証拠から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ル
ート・東南アジアから南方伝来ルート)による伝来である学説が見
直され、日本から朝鮮半島へ伝わった可能性を指摘する佐藤洋一郎
の説もある。

一方、これらに対して農学者の池橋宏は、従来の「縄文稲作農耕」
説は農学的に見ても疑わしく、日本の稲作は江南を起源とし、北九
州に持ち込まれた可能性が高いと主張している。

しかしながら、最近の遺伝子解析技術の進歩はめざましく、こうい
った学説では日本での水田跡が紀元前まで遡るのに比べて、朝鮮半
島では水田耕作の遺跡が約1500年前くらいまでしか遡れない事実と
符合するものでもある。現在、炭素14による日本最古の水田稲作遺
跡は約2800 - 3000年前とされている。

Wikipedia「日本人」より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA

22投稿者:777  投稿日:2011年08月16日(火) 07時50分13秒

日本の神典によると、稲の起源は神代の時代で、保食神(伊勢外宮
のご祭神・豊宇気姫神)によってその原種が生み成されたとされて
います。
そして天熊人(あまくまのうし)がそれを高天原へ持ち帰ったとこ
ろ、天照大御神が「この物は、すなはち顕見(うつしき)蒼生(あ
おひとくさ)の食ひて活(い)くべきものぞ」という神勅を発せら
れ(「顕見蒼生」とは人類のこと)、人間の主食であることが定め
られました。
その後、高天原で稲を培養する道が開かれ、また品種改良も行われ
て、天孫降臨の際、邇々芸命(ににぎのみこと)に最上級とされる
米種が授けられたことが伝えられています。

わたしが学校で習った頃は、確か「稲作は朝鮮半島から日本に伝わ
った」という説でしたが、テクノロジーの発達によって様々なこと
が判明してきますね。
今の子どもたちは、どのように教えられているのでしょうか?

参考:日本古学アカデミー#0074【衣食の道、開かれる】
http://www.nihonkogaku.com/content/index_top.cgi?start=40&co=40


http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/230809.htm
23投稿者:削除跡 投稿日:時空の歪
24投稿者:削除跡 投稿日:時空の歪
25投稿者:削除跡 投稿日:時空の歪
26投稿者:削除跡 投稿日:時空の歪
27投稿者:削除跡 投稿日:時空の歪
28投稿者:削除跡 投稿日:時空の歪
29投稿者:4  投稿日:2012年05月17日(木) 07時47分17秒
もともと日本人は一体感の強い国民性だ。しかし小泉、官僚、経団連等に代表される売国奴が
アメリカの命令により日本を破壊しようとした。
「日本人の一体感」とはどのようにして生まれたか。以下は私見だ。

日本は昔たいした農作物もなく非常に貧しい国だった。そこに米が入ってきた。米は大変価値
が高い。日本人は米を作ることに全精力を傾けた。宮沢賢二のような篤農家と言われる人たちが
人生を懸けて品種改良にとりくんだ。米を神聖化し(新嘗祭)、米で納税し、米の
生産高でその地方の経済力や軍事力を測った。米の先物市場も作った(北浜の米相場)。
しかし亜熱帯植物である米(原産地は中国南部とベトナム)を温帯の日本で作ることは困難を極
めた。昔は農薬もないから害虫を取り除いたり枯れた葉を取ったりする作業を手で行う。だから
大量の労働力を集中した。日本が工業化するときカメラや時計などの精密機器に強かったのはこの
手先の細かな動きを必要とする作業を行うことによって訓練されたのではないかと思う。
亜熱帯植物である米を日本で作るには気象条件により大変制約される。日本の夏は熱い。この短い
時期に一気に米を生育させなければならない。そして秋には台風が来る。刈取が遅れれば稲は台風
で全滅する。だから村全体で一気に刈り取ってしまわないといけない。農繁期には「猫の手も借り
たいほど」忙しい。このような農業では村人が勝手なことをされては困るのである。




村が生活の単位だったのである。社会学ではこのような共同体を共働共同体というらしい。
戦後農村が衰退し都市の企業に勤める人が増えると村に代わって会社が共働共同体となった。
会社が生活の単位となった。それがいいと言っているのではない。そうなった理由があるといってい
るだけだ。

日本をアメリカ化しようとした人たちはそういうことを考えない浅薄な人たちである。

このような日本人の心性はそう簡単にかわらない。これは親の心性(ものの感じ方)を乳児期にコピー
するからである。遺伝子レベルではない。日本人から生まれてすぐアメリカ人に引き渡して育ててもら
えば顔は日本人だが頭の中はアメリカ人という人間になる。

このような日本人の欠点として人間関係にとらわれすぎ、同じようにしないと虐めの対象になるとい
うことはある。
30投稿者:4  投稿日:2012年10月10日(水) 12時01分18秒
112 :本当にあった怖い名無し:2012/08/21(火) 23:07:15.88 ID:lOYeC1G90
>>111
石垣島だろ。
この島では、埋葬後3年目に遺体を掘り出して洗骨する風習があった。
洗骨しないと次の死者が埋葬できないしきたりだったので、
次の死者が出ると、埋めて数か月の生々しい遺体でも掘り起こし、
包丁や鎌で腐乱した肉をそぎ落として、薄めた酒で骨を洗ったそうだ。
これらは、すべて島の女たちの役目。
女には、呪術的で神聖な力が宿っていると信じられていたんだね。
昭和の初め、この光景を目撃したことのある島の老翁が学者の聞きとり調査に応え、
「その残忍さと死臭は目をおおわんばかりに凄惨を極めた」と語っている。

が、遺体を分断する風習は琉球に限らず、古くは日本各地にあったようだ。
目的は、主に悪霊祓い。
地方名を出すのは控えるが、妊婦が分娩中に死亡すると、
村の老婆が死亡した妊婦の腹を鎌で裂いて胎児を取り出し、
妊婦と胎児をバラバラに裁断して葬る(地域によっては野山に撒く)ところもあった。

古代の日本では、物を斬り裂くことも、人間を葬ることも、同じく「ハフリ」と呼ばれた。
悪霊封じのために遺体を分断して埋めることは、
一種の宗教的儀式、あるいは呪術として広く行われていたらしい。
>>101のバラバラ死体も、人肉食よりハフリの可能性のほうが高いように思う。
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/occult/1333464457/
31投稿者:4  投稿日:2012年10月10日(水) 12時07分06秒
104 :本当にあった怖い名無し:2012/08/18(土) 15:27:39.14 ID:tLucQCE00
水子は民俗学のほうでだいぶ研究があるな
現在のような水子供養の概念というのは人工妊娠中絶が盛んになってからのもので
かなり新しい 特定宗教が新手の金集めのために始めたという話もあるくらい

昔の間引きや、石を抱いたりしての子堕ろしと現代の妊娠中絶が最も異なる点は、
間引きなどは集落において容認されていたという点かな
ある程度の年齢の子がある日を境にいなくなったとなれば、集落内でははあやったか、とすぐにわかる
それに対して現代の妊娠中絶は人に知られぬ個人的な行為だから、どうしても罪悪感を
個人で引き受けるしかない 

「現代日本の水子供養」
http://www.ne.jp/asahi/time/saman/index.htm
32投稿者: 投稿日:2013年01月19日(土) 11時39分50秒
弥生人と大和朝廷は完全な別民族
古代朝鮮は倭人ではなく漢民族が支配していた。

大和朝廷も元々は朝鮮にいた漢民族

弥生人は被支配者で氏姓を持たない劣等氏族
33投稿者:Chris  投稿日:2016年04月25日(月) 08時06分35秒
Estude vocテθ津つェ! Com a frase “Para mim e para muitos テθ津つゥ sテθ津つウ um efeito de luz e cテθ津つ「mera conjugados.” Sybylla quis dizer que o efeito テθ津つゥ causado pela combinaテθ津つァテθ津つ」o cテ#;テNera+iluminaテθ津つァテθ津つ」o.&ニ8220テEntテθ陳「ツ」o vテθ津つァ estudar e se converter primeiro,pra depois sair por ai escrevendo coisas que nem vテθ津つァ sabe como funciona,ou conhece,テδ「テやぎテつヲ.certo??”
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