ドストエフスキー [本/雑誌]
1投稿者:777  投稿日:2011年01月20日(木) 16時56分42秒

「俺に「アレ」が出来るだろうか?」とラスコーリニコフは呟いたが、「アレ」とは「アリョーナ殺し」ではなく、実は「皇帝殺し」だった。

ドストエフスキーが生き、そして書いた時代は、まさしく革命前夜で、弾圧と密告、そして情報統制と検閲の嵐が吹き荒れる恐怖政治の時代であったが、それ故に、ドストエフスキーの書いた小説は、そういう壁を乗り越えて出版されたものだという歴史的事実を考えるならば、多くの政治的仕掛けや謎が作為的に施されているはずであって、その歴史的事実を忘れて、単なる文学作品として、純粋に文学的に読むということは出来ない。たとえば、すでによく知られていることだが、『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは、冒頭の部分で、「俺に「アレ」が出来るだろうか?」と呟くが、「アレ」とは、一体、何なのだろうか。作品を素直に読むならば、文字通り、「アレ」とは、シラミのような質屋の「老婆殺し」なのだが、実は「老婆殺し」という言葉には、当時の政治体制の権力構造の根幹を破壊すべく試みられるべき「皇帝殺し」という政治的メッセージが、メタファとして隠されていたのだった。なぜ、ドストエフスキーは、そんな複雑な仕掛けを施したのか。むろん検閲逃れと、当局の監視の目をくらますためである。つまり『罪と罰』は、「老婆殺し」をテーマとする、単なる犯罪小説なのではなく、革命行為としての「皇帝殺し」を目指し、それを果敢に実行した青年の物語なのである。言い換えれば、『罪と罰』は、テロリスト小説であり、革命小説なのである。(続)

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2投稿者:4  投稿日:2011年01月24日(月) 10時35分51秒

そもそも、『オイディプス王』や『源氏物語』を持ち出すまでもなく、文学の原点は近親相姦である。それとは知らずに母親と結婚し、子供を設けるという話が『オイディプス王』であり、父親(桐壺帝)である天皇の后(義理の母親、藤壺)と不義密通の上で、子供(薫、後の冷泉帝)を設けるというのが『源氏物語』である。本居宣長は、『古事記』を正確に理解するためには、、直接『古事記』に向かわないで、まず不倫小説である『源氏物語』から読めと言っているが、その本居宣長の真意は、倫理道徳という固定観念に雁字搦めになったような読み方では、『古事記』の本質は、つまり「物のあはれ」や「やまとごころ」は読めないということであった。つまり『源氏物語』を読んで、小説や物語を読むときの読み方に習熟してから、『古事記』を読めということである。
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3投稿者:4  投稿日:2012年08月17日(金) 16時58分38秒

ニコライ・スタヴローギンの帰郷ーー清水正の「悪霊論」三部作を読む。ーー
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